ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 20152.日本赤十字社による看護婦養成西欧のように修道女による看護の伝統をもたない日本には、19世紀中ごろまで明確なかたちでは看護という職業は存在していなかった。医師の指導のもとに医学を学ぶ医学生や開業医の妻による診療補助、病人の家族や素人の女性による療養の世話、あるいは仏教徒などの宗教家による貧しく病弱な者、障害をもつ者への慈善事業として、看護は行われていた。西欧を訪れた政治家や医師、当時、日本に招かれた外国人が、西欧諸国においては看護が訓練を必要とする専門的実践であり、女性の特性を活かせる職業と認められていることを伝え、看護婦養成を開始した。1884年には東京有志共立病院(現在の東京慈恵医科大学)において初めて近代的な看護婦養成が行われた。この養成所は、英国の聖トマス病院で学んだ医師で、後の海軍軍医総監となる高木兼寛が同病院のナイチンゲール看護学校をモデルに始めた。続いてキリスト教の布教のため日本を訪れた宣教師らにより、京都看病婦学校(現在の同志社大学)や東京の桜井女学校で看護婦養成が行われた。まだこの時代には正規の教育を受けた看護婦は少数だった。日本赤十字社でも赤十字事業の担い手である看護師を養成する必要性が認識されていた。1880年、博愛社の社員総会で、社員ハインリヒ・フォン・シーボルト(Heinrich von Siebold)が、外国の女性による救護活動を紹介し、看護における女性の適性を論じた。同時期、内務省の柴田承桂は赤十字の依頼にて欧州赤十字社の調査を行い、すでにドイツ、オーストリア、スウェーデン、デンマークで赤十字による看護婦養成が行われていることを伝えた。さらに陸軍軍医総監で、後の日本赤十字社病院院長の橋本綱常が渡欧により赤十字や看護婦養成に関する諸外国の規則をもち帰り、赤十字における女性救護員養成につながった。1886年に看護婦を養成するための病院である博愛社病院(後の日本赤十字社病院)が設立された。これは平時に救護員を養成するため、現在の東京都千代田区飯田町付近に設置された。その後4年間の準備を経て、1890年に日本赤十字社による看護婦養成が開始された。以降、日本赤十字社病院看護婦養成所時代(1890年? 1945年)、日本赤十字専門学校時代(1946年? 1953年)、日本赤十字短期大学時代(1953年~1985年)を経て、現在の日本赤十字看護大学(1986年? )に至る。以下ではそれぞれの特徴について述べる。3.日本赤十字社病院看護婦養成所(1890-1945年)(1)看護婦養成のはじまり日本赤十字社の看護婦養成は1890年4月に飯田町の日本赤十字社病院で開始された。第1回の生徒は10名であり、入学資格は年齢20歳から30歳までの女子で独身健康なもの、高等小学校卒業(当時高等小学校は14歳までの教育)、もしくは同等の学力を有するものであった。なお当時の女子の高等小学校の就学率は約30%であった。入学試験の科目は読書、作文、応問、書取、算術であった。日本赤十字社の看護婦養成の責任者は、日本赤十字社病院の院長である橋本綱常が就任した。教科は養成所1回2回生卒業証書授与式c日本赤十字看護大学史料室86人道研究ジャーナルVol. 4, 2015