ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015解剖学、生理学、消毒法、看護法、治療介補、包帯法、救急法、傷者運搬法の8教科で、帝国大学医科大学(現在の東京大学)の別課(当時日本が採用したドイツ医学を原語ではなく日本語で学ぶコース)の卒業生である医師らが主に担当した。教育課程は全部で3年半、そのうち1年半が学業で、2年が実習であった。学費は不要で、生徒には月額いくらかの学費が支給された。翌1891年には病院を飯田町から現在の東京都渋谷区に移転した。新病院はドイツのハイデルベルヒ大学病院の設計図を模して、汚水の消毒まで完備し、当時としては最新の設備を誇った。病院の新築により看護婦生徒は入寮して学んだ。赤十字事業の発展に向けた基礎づくりのため日本赤十字社の佐野常民社長は、日本の各都道府県に支部を設け、各支部でも看護婦養成を行う計画を立てた。その際、各支部で看護婦養成のモデルとなる看護婦を養成するため、1890年10月入学予定の2回生の採用からは、支部から優秀な生徒を選出して、本社病院で教育する制度を発足させた。そうして2回生は、支部から推薦されて合格した4名を含む、計9名が入学した。この方法によって、日本の各地で赤十字の支部により看護婦養成が始められた。卒業生には卒業後20年の間、有事に際しては招集に応じる義務があった。赤十字は戦時救護に必要な看護要員を準備することを目的としていたため、師団の数に応じて必要数が定められており、したがって必要数が満たされている場合には養成を行わない年度もあった。これらは一般の看護婦養成にはみられない赤十字ならではの特徴だった。卒業生は、赤十字の主旨に基づいて活躍した。1894-1895年の日清戦争、1900年の北清事変、1904-1905年の日露戦争などに際し、軍の衛生支援のため大勢の看護婦を動員した。これらの戦時の活動を通じて、日本ではそれまであまり知られていなかった赤十字と看護婦の存在が認知され、高い評価を得るようになった。卒業生は災害救護においても活躍した。第1回生は、1年半の学業を終えたばかりの1891年10月末に起こった濃尾地震で災害救護に参加した。これをきっかけに日本赤十字社は、翌1892年戦時救護に並んで、災害救護を社の事業と位置づけ、その後の日本各地で起こったさまざまな災害で救護を行った。また卒業生は平時には、派出看護や病院看護などを通じて、日本の医療にも貢献した。20世紀の初めまで、日本にはまだ病院が少なかったため、卒業した看護婦は支部の設けた外勤部(派出看護部門)などを通じて、病人のいる家庭の求めに応じて派出看護を行った。病院が増え始めると病院看護、公衆衛生看護に携わる看護婦も増加していった。このように日本赤十字社の看護婦養成は、生徒の入学資格においても、また教育に要する期間や内容においても当時の日本においては最高レベルにあり、東京本社だけでなく、支部の看護婦養成へと拡充するなど、全国的に展開されたことに特徴であった。(2)養成事業の充実明治期の戦争での救護経験を通じて、赤十字のように軍の衛生支援を行う看護婦には、単に技術の熟練のみならず、精神面での修養が必要と認識されるようになった。はじめて軍の衛生補助のために赤十字看護婦による救護が行われた日清戦争(1894-1895)では、女性救護員の監督のために華族女学校の教師の経験のある教育家、高山盈が看護婦監督に任命され、あわせて養成所の看人道研究ジャーナルVol. 4, 201587