ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015護婦監督及び養成係にも任命された。それ以降、第二次世界大戦終結までに、日本赤十字社病院看護婦養成所では7代にわたる看護監督が看護婦生徒の訓育も担当した。1898年には赤十字看護婦の心構えである「日本赤十字社看護婦訓戒」が発布された。これは従来の佐野社長の訓戒を集大成したもので、全20条から成っていたが、その後に10条に改定され、昭和期には「救護員十訓」と名づけられ、生徒の心がまえの基となった。一、博愛ニシテ懇篤親切ナルヘキコト二、誠実勤勉ニシテ和協ニ力ムヘキコト三、忍耐ニシテ寛裕ナルヘキコト四、志操堅実ニシテ克己自制ニ力ムヘキコト五、恭謙ニシテ自重ナルヘキコト六、謹慎ニシテ規律ヲ重ムスヘキコト七、勇敢ニシテ沈着ナルヘキコト八、敏活ニシテ周密ナルヘキコト九、質素ニシテ廉潔ナルヘキコト1891年濃尾地方での第一回生の災害救護十、温和ニシテ容儀ヲ整フヘキコトc日本赤十字看護大学史料室日本の中央と地方においてまだ差があった赤十字看護婦の質を高め、均一化するために、1896年に支部模範看護婦選出例規が定められた。これにより日本赤十字社病院は各支部から選ばれた生徒を数多く受け入れることになった。また、各支部で学業を終えたものが1年または2年間、実務練習性として日赤病院で実習を行う制度もつくられた。実務練習生は1899年から1917年まで続いた。教育課程については支部との統一を図るため、修学年限が3年半から3年になった。教科に関しては、専門教科を日赤病院医員が分担し、修身、英語、裁縫、体操、音楽などの一般教科には各専門の講師が招かれた。教育材料が整備され、実地見学、運動会や修学旅行、遠足も行われた。教育方法では、実物や模型あるいは実験によって啓発的に指導すること、注意力が旺盛な時間に思考力を集中する必要がある学科を設けること、修身教育を重要視すると共に、規律や共同動作の訓練として、患者運搬法(担架訓練)や体操に力を注ぐことなどに留意された。寄宿舎生活では、規律正しい習慣を身につけることが意図された。1908年には養成規則が改定され、看護婦生徒は、救護看護婦生徒と呼ばれるようになった。女性の学歴が高まるにつれ入学資格も変更された。1910年には女子の尋常小学校就学率は100%になり、高等女学校(16歳までの教育)の就学率は1905年には5%であったのが、1925年には15%近くにまで上昇した。そのため1933年の養成規則の改訂では、入学資格を高等女学校卒業もしくは同等の学力をもつと認められる者と定め、学力の均質化を図った。1904年からは随意科として英語が加わり、1920年代には社会的看護事業の教育にも重点がおかれるようになった。これは1921年の第10回赤十字国際会議の決議事項により、公衆衛生看護事業をすすめることになったことと、同じころ文部省から日本赤十字社に学校看護婦の派遣依頼があったこと、巡回看護婦、工場看護婦などの社会的需要が増加したことなどが相まって、保健教育の必要性が高まったからである。1923年の関東大震災では看護婦生徒が全員、災害救護にあたった。1928年から1937年にかけては社会看護婦(公衆衛生看護婦)の養成も行った。1935年に新しい看護婦教養所が建築された。1932年の関東大震災の教訓を活かし、病院をはじ88人道研究ジャーナルVol. 4, 2015