ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015め教場・寄宿舎のすべてを鉄筋コンクリート造りの耐震耐火建築にする計画がたてられた。病院改築計画のなかで、はじめに看護婦教養所の建築が行われた。教場は「聚徒教習」の古語から教習館と名づけられ、看護婦・生徒寮は、孟子の「養心莫良於寡欲」の語句、すなわち「我が本心を養う」意味で、養心寮と名づけられた。教習館は鉄筋コンクリート造り、地下1階地上3階建てであり、養心寮の居室はすべて洋式で、暖房やエレベーターまで完備し、まさに当時にあっては東洋一の建物でした。教養所を含む病院の第1期工事は1936年に完成したが、病棟、手術室などの第2期工事は日中戦争のために中止され、1891年以来の木造の病棟建物は1976年の改築まで使用された。(3)第二次世界大戦中の看護婦養成1937年日中戦争がはじまり、1941年には日本は中国に加え、米国、英国、オランダを交戦国とする太平洋戦争へと突入していった。準備していた救護看護婦では足りず、さまざまな方法で養成を行って看護婦の確保を図った。従来の教育課程における養成期間を3年から2年にすること、従来の教育課程を卒業した看護婦を甲種看護婦とし、新たに高等小学校卒業後に2年の教育を行う乙種救護看護婦を養成すること(乙種救護看護婦は318名が卒業)、また赤十字以外の看護婦養成所を卒業した看護婦に赤十字病院での3か月の講習を行って臨時救護看護婦とすることなどである。看護の質の低下は免れなかった。日中戦争以降、日本赤十字社病院では傷病兵の収容が増加する一方で、看護婦は次々と救護班と編成され国内外の傷病兵救護のために派遣されていった。生徒は病院の労働力とみなされ、本土空襲がはじまると生徒も空襲に備えて防空壕を掘り、防火訓練や避難訓練を行った。1945年5月には病院建物にも空襲の被害が出たが、人的被害はなかった。食料は不足し、物資の入手ができない中で、生徒が主力となって看護業務を維持していった。1945年8月15日の終戦時には、社会的混乱を避けるために学業を中止して帰郷するものも出たが、修学を続けた人たちは院内の空き地に甘藷などを栽培し、食糧難に耐えながら寮生活を続けた。甲種救護看護婦生徒の第71回生は翌1946年に設立された日本赤十字女子専門学校の2学年に編入、そのうち約半数は3学年に進級し、1948年3月に専門学校第1回生として卒業した。乙種救護看護婦生徒の教育は終戦と同時に廃止され、第4回生は1946年の3月に卒業したが、第5回生は中途で日赤中央病院を去った。こうして1890年以来約半世紀余りにわたって続いた日赤病院における看護婦養成は甲種救護看護婦生徒第71回生及び乙種救護看護婦生徒4回生の卒業とともに完了した。4.日本赤十字女子専門学校の設立(1946から1953年)戦後、日本は連合軍総司令部(以下、GHQと略す)の占領下に置かれた。GHQ公衆衛生福祉部は、看護教育モデル校を設置するために、聖路加女子専門学校と日本赤十字社病院養成部を選んだ。両校をパイオニア的な看護学校と評価して、聖路加女専の看護教育者の力と、養成部の臨床看護能力と設備を活用するためであった。日本赤十字社は聖路加女専との共同教育を行うために、養成部を専門学校にする必要性を感じて、公衆衛生福祉部の指導のもとに、1946年6月に文部大臣に申請、同月、専門学校令(旧制度)に人道研究ジャーナルVol. 4, 201589