ブックタイトルThe Journal of Humanitarian Studies
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The Journal of Humanitarian Studies
Journal of Humanitarian Studies Vol. 4, 2015基づいて財団法人日本赤十字女子専門学校の設立が認可された。これにより経営主体が病院ではなくなり、学校として独立した。教育課程は3年で、入学定員は当初は120名(後に40名)、入学資格は高等女学校卒業もしくは同等の学力を有するものであった。教科はGHQの公衆衛生福祉部看護課長オルト大尉(のち少佐)のもとに編成され、一般教養とともに、赤十字関係科目が含められ、赤十字の独自性も保たれた。看護教育模範学院の合同教育は、連合軍に建物を接収された聖路加女専が、新設を予定している日赤女専に移って行われた。学院長には原泰一(日本赤十字社副社長、財団法人日赤女専理事長)が就任した。GHQの看護課よりカールソン以下、5名の教師が看護コンサルタントとして派遣され、聖路加女専の教務には湯槇ます主事以下6名の看護教員、日赤女専の井上なつゑ主事以下の5名の看護教員が加わり、日米の看護婦が共同して新制度による教育を実験した。開校式は1946年6月1日に行われた。授業は聖路加女専の教師と、通訳つきでGHQの教師が担当し、教授経験を持たない赤十字の教員や病院の婦長は1948年から教壇に立った。GHQからの寄付により新品の寝具や看護用具があった。実習は週数が制度上の規定よりも多かった。日本赤十字社中央病院の看護婦数が極端に少なく、戦前からの慣習で、生徒の実習は看護業務そのものであるという考え方があったからで、病棟での看護は学生によって維持されていた。公衆衛生看護の実習にも力を入れていた。卒業生は、日本各地で看護実践や教育のリーダーの役割を果たしていった。GHQの教師は1950年までに順次、模範学院を去り、聖路加女専の校舎が1953年にGHQから接収を解除されると、合同教育は終了した。まもなく日本赤十字社は新教育制度による短大設置の方針を決定し、1953年には学校法人日本赤十字女子短期大学の設置を申請した。これにともない、1953年度入学の第9回生が1956年に卒業して日本赤十字女子専門学校は終結した。卒業生総数は351名であった。5.日本赤十字女子短期大学(1954-1986年)日本赤十字女子短期大学は1954年4月に開設された。設置主体は学校法人日本赤十字短期大学で、赤十字精神に基づき、看護学、保健学、育児学に関する学術を授け、社会福祉に奉仕する看護婦を養成することを学校の目的・使命とした。3年制の看護科とし、定員は1学年60名であった。教育科目は、一般教育科目・外国語・体育・専門科目(赤十字関係科目を含む)で総計99単位以上であり、135週の臨床実習が行われた。教員は学長以下、専任教授が3名、助教授3名、その他必要な教職員若干名であり、実習内容を充実させるために、日本赤十字社中央病院から専任の臨床指導者が派遣された。教材教具の整備に関して、1954年ロックフェラー財団からの寄付金により、看護実習室、理科学実験室、視聴覚教材などの教材、設備が充実した。校章、校歌、ユニホームが新しくつくられた。看護婦教養所の建物はそのまま使用され、1959年には養心寮の南側に鉄筋コンクリート造り4階建ての学生寮が新築された。1966年1月に日本赤十字武蔵野女子短期大学の設立にともない、学校法人赤十字学園が文部大臣から認可された。これにより名称が日本赤十字中央女子短期大学と変更された。1967年の保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則の改正により、教育内容の全面的な改正が行われた。その骨子は1)基礎教育の内容の拡充、2)看護学の枠組みの体系分類、3)看護学における保健の強化、90人道研究ジャーナルVol. 4, 2015