ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園教育・研究及び奨学金基金」教育・研究事業報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園教育・研究及び奨学金基金」教育・研究事業報告書

ていたが、1915年にスイスとヴァチカンが共同で行う人道活動を監督するために、ヴァチカンはベルンに代表部を設置したのである41。第二次世界大戦においても、ヴァチカンは情報局を設置し、第一次世界大戦と同じように捕虜とその家族など、連絡が取れなくなった人々の間で連絡をとれるようにした42。また手紙の送付以外に、ヴァチカンのラジオは、1940年から45年まで1,240,728件のメッセージを放送した43。もっとも、第一次世界大戦とは状況が異なり、たとえばドイツはヴァチカンの情報局に協力することを拒否し、赤十字だけが活動をドイツ国内で行えるとした4 4。また、イギリスもヴァチカンに常に協力的であったわけではない。赤十字が同様の活動を行っており、ドイツが拒否しているなどの理由から、ヴァチカンはイギリス国内にいるドイツとイタリアの捕虜のリストを渡すようイギリスに依頼したが、イギリスはそれを拒否した45。もっとも、イギリスは、イタリア人捕虜とその家族の間の通信は許可し、また、ヴァチカンの外交使節の捕虜収容所への自由な訪問も許可した46。ヴァチカンは、第二次世界大戦中も中立を保ったが、ピウス12世はヒトラー政権を転覆する計画を立案したルートヴィッヒ・アウグスト・ベックらドイツの将軍たちと、イギリス政府の間の連絡を、1939年9月から1940年5月まで極秘裏に仲介した47。ピウス12世はほとんど個人的にこの仲介を行い、露見することはなかったが、もしこれが露見していたら、ドイツはヴァチカンを中立とみなさなくなり、また、ヴァチカンとイタリアの関係も難しいものになっていただろう、とされている48。8 Venelin Tsachevsky , The Swiss Model ? The Power of DemocracyTsachevskyは、スイスの政治的特徴をスイスモデルとして解説しているが、そのなかで一章をスイスの中立にあてている。Tsachevskyによると、スイスの中立は、主に領土的拡張を行うことが困難になったためである49。現在のスイスとは違い、スイスは13世紀から幾度となく対外戦争を行い、領土を獲得してきたが、スイス連邦を構成するカントン(Canton)には、人口分布上の摩擦やカトリックとプロテスタントの違いなどから、国内の安定が重要となり、15世紀後半頃から隣国との平和的な共存という政策を採らざるをえなくなっていた50。1648年のウェストファリア条約で正式に終結をみた三十年戦争にスイスは参戦しなかったため、三十年戦争の惨禍を受けることがなく、さらに、戦争当事国間41 Ibid., 42.42 Ibid., 307.43 Ibid.44 Ibid.45 Ibid., 308.46 Ibid.47 Ibid., 312-313.48 Ibid., 313.49 Tsachevsky, 154.50 Ibid.,77