ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

認して、希望の方法を採った。研究者の所属する機関の倫理審査の承認<研倫審委第2008-61>を受けて実施した。3)結果及び考察(1)満州派遣日本赤十字社看護婦の「戦争」体験―ソ連侵攻から日本帰還までに焦点をあてて―研究分担者山崎裕二(日本赤十字看護大学)本研究の目的は、第1に、日華事変以降、満州に派遣された日赤救護班の帰還状況を明らかにする。第2に、満州派遣救護班の『戦時救護班業務報告書』(日赤保管)の中から「総報告書」の提出状況を調査し、現存する「総報告書」の一部をもとにソ連侵攻から日本帰還までの日赤看護婦の体験の概要を把握する。第3に、回想録に記された日赤看護婦のソ連侵攻から日本帰還までのさまざまな体験をカテゴリー化する。第4に、以上の結果をもとに満州派遣日赤看護婦の終戦前後の体験の特徴について考察することであった。結果、以下のことが明らかになった。1満州派遣救護班の帰還状況中国や南方に派遣された救護班に比べ、満州派遣救護班の日本帰還が遅れたことがわかった。その理由は、ソ連軍侵攻後の抑留だけでなく、終戦後も国民党軍や八路軍による抑留を受けたためである。南方では、戦後、アメリカやイギリスなどの連合軍に収容され逐次帰国できたのと対照的である。この背景には、連合国とソ連の捕虜の取り扱いに対する方針の違いや、戦後の満州が国共内戦の主戦場になったことがあったと考えられる。1953年~1955年に帰還した看護婦は1救護班あたり最大13人~最少0人であり、班員の半分以上の看護婦の帰還が遅れた班もあれば、終戦後1、2年以内に全員の看護婦が帰還できた班もいた。この違いの要因としてソ連参戦時の配属先の場所の違いが考えられた。2「総報告書」に書かれた体験4つの救護班の「総報告書」に書かれた日赤看護婦の体験から、ソ連軍、国府軍(国民党軍)、八路軍(共産党軍・人民解放軍)と支配者が変わっても、それぞれの軍の衛生業務において看護婦として留用されたことがわかった。それはどの軍も医療者不足であり、日本の高い医療技術を利用したいと考えたからと考察された。また、終戦後の混乱の中、20名余で編成された救護班の看護婦全員での行動が不可能になったため、小グループに分かれ、それぞれに別々の体験をしたことがわかった。それゆえ、グループごとに帰還時期が異なり、最終的に八路軍に拘束された看護婦が長期にわたる留用生活を余儀なくされ帰還の時期が大幅に遅れたと考えられる。3回想録に書かれた体験満州派遣日赤看護婦の多くがソ連軍兵士や中国人・朝鮮人の暴徒から略奪を受けたことがわかった。武装解除された日本軍兵士の多くはシベリアに送還され、看護婦を守る者が55