ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

義者」などの偏見・差別を受け就職難を体験した。また、戦後の補償金に関しても、日赤看護婦は軍属であるが軍人恩給制度の対象にはならず手厚い保障を受けられなかった。日赤看護婦の運動により1979年から「従軍看護婦への慰労給付金支給事業」が実施されたが、帰還同様にずいぶん遅い戦後補償となった。(2)第二次世界大戦時、日本赤十字社戦時救護班のフィリピンでの救護活動-看護婦2名の語りを中心として-研究分担者鷹野朋実(日本赤十字看護大学)日赤の救護活動が開始された当時、フィリピンは日本の統治下にあり、南方戦線における負傷者の治療、搬送のための中継拠点という位置づけであった。救護班は、救護活動の中心的役割を担っていたマニラ市内の第十二陸軍病院を中心として、その分院、各地の兵站病院へと配属された。その後、戦況は次第に悪化し、昭和19(1944)年9月21日のマニラ大空襲を皮切りにフィリピンは戦地と化し、昼夜分かたず空襲が頻繁となった。病院は相次ぎ閉鎖され、救護班も部隊とともに山嶽地帯へと転進し、救護活動を続けながらの悲惨な逃避行の後、日赤救護班の看護婦たちも山中で敗戦を向かえた。フィリピンに派遣された看護婦たちの多くは、派遣されてまもない頃よりマラリアやデング熱に罹患したものの、マニラ大空襲までは食生活に恵まれていたこともあり、予後は良好であった。山嶽地帯へ入った後に死亡者が多数出たのだが、その死因は爆撃などの攻撃よりも、衰弱に伴う病死の方が遙かに多く、この戦争で亡くなった日赤救護班班員133名のうち62名が病死で、全戦病死者数の約47%を占めている。今回は、日本赤十字社の救護看護婦(以下、「看護婦」)として第二次世界大戦中にフィリピンで活動した2名を対象としたインタビュー調査を中心として、フィリピンで救護班の班員たちがたどった経緯についてまとめた。以下は、A救護班に所属していた及川さんの敗退時のまとめである。救護班が活動していた病院付近にもアメリカ軍の攻撃は迫ってきて、日本軍は1945(昭和20)年1月に全ての病院を閉鎖、1月7日に救護班全員に対してバギオ集結の命令が下された。【北部ルソン山嶽地帯へ】高地にある町バギオに向かうため、A救護班は他のいくつかの救護班とともにルソン山嶽地帯へと移動を開始した。その初日、畑山さんたちが荷物を載せて準備をしていたトラックに、なぜか別の救護班の班員たちが乗り込んでしまい、出発してしまった。自分の荷物と一緒に移動できなくなった畑山さんたちは、不承不承、別のトラックに乗った。出発後まもなく、畑山さんたちの荷物を載せたトラックが爆撃にあい、畑山さんたちの目前で炎上した。畑山さんは、たまたまこのトラックに乗らなかったため間一髪、難を逃れたのだが、乗車していた他班の看護婦1名が死亡した。【5月25日の爆撃】山嶽地帯へと入った畑山さんらは、病院閉鎖時に入院していた傷病57