ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

兵らとともに移動していた。当初はトラックや自動車がつかえたものの、すぐに、傷病兵らに手をかしながらの徒歩での移動へとかわった。移動途中、要所要所で現地人が逃げてしまって空き家となっていた建物、洞穴などを利用しつつ、即席で病院を設え、傷病兵の看護活動を実践した。山中で看護活動を行っていた1945(昭和20)年5月25日、A救護班が活動していた竹製のバラックの病舎が、アメリカ軍の爆撃を受け、入院患者、医師、救護班の看護婦ら多数の死傷者を出した。畑山さんがいたバラックも倒壊、その下敷きになった畑山さんも負傷したものの、軽傷ですんだ。この日、A救護班の看護婦のほとんどが体調を崩しており勤務ができなかったため、畑山さんは他班の看護婦を応援に出してほしいと要請、1名の看護婦が手伝いにきていた。その看護婦が爆撃に巻き込まれて死亡し、畑山さんは「自分が手伝いを頼んだせいで、死なせてしまった」と後悔し、自分を責め、これが後々まで畑山さんの心の傷となった。体調不良のため、勤務につけなかった及川さんもまた、「自分が元気であったなら死んでいたのは自分だったのではないか。あの人を巻き込んでしまった」と、この出来事に対してやはり罪悪感を抱いていた。【山中を彷徨う】アメリカ軍の攻撃はさらに激化し、畑山さん、及川さんら看護婦たちも自分たちが生きるに精一杯といった過酷な状況となり、傷病者の看護を行いたいという気持ちはあるものの、実際にはできないという現実に、及川さんらは葛藤を感じ、辛い気持ちでいた。その頃、軍の命令により救護班の看護婦は、重症の傷病兵に対してクレゾール原液を注射するといった処置にも関わった。事態は刻々と悪化し、移動中に体力が尽きて歩行が困難となった兵士はそこに残していくしかなく、道端で倒れている兵士に遭遇しても、物理的にはもちろん、自分たちの身体的、精神的余力も全くなく、何もできなかった。そのことについて、畑山さん、及川さんは未だに「自分たちは見殺しにした」と自責の念を抱いている。以下、戦地での救護看護婦としての体験が2名の元救護看護婦にどのような影響を及ぼしたのかに焦点をあて、考察した。死の恐怖に直接的、もしくは間接的に晒される体験による衝撃を、‘心的外傷(トラウマ)’と呼ぶ。近年、間接的なトラウマとして、災害や事故時に遺体収容や救援活動に従事する人々の、いわゆる‘惨事ストレス’もまた、心的外傷の原因となりうることが注目されている(エヴァリー&ミッチェル,2004)。畑山さんは、フィリピンに派遣された当初、穏やかで安全な生活を送ってはいたものの、戦地から転送されてくる重症の傷病者の看護を行っており、すでに‘惨事ストレス’に晒されていたといえる。その後、自らも生死の境を生き抜いていくという直接的な極限のストレス状態にも置かれ、それが長期間持続したことを考えると、戦時救護がいかに人間にとって悲惨で、過酷な営みであったかがわかる。このようなトラウマ状況を生き抜いてきた人々は、自らが生き残ったことに‘生存者の58