ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

護班(熊本)は、インパール作戦失敗後に後退してきた107兵站病院が開設した前線のメイクテーラ本院に、ラングーンから派遣された。メイクテーラ本院は前線から毎夜、患者が後送され、もともとの患者収容能力800名の倍近い数の1,600名を収容していた。「収容しきれなくて(翌朝)床下、庭の木の下で息絶えて冷たくなっている兵士もあった」。メイクテーラは2月27日、英国第4軍団の機甲部隊の攻撃を受けた。司令官は入院患者約500名を含む部隊を臨時編成したが、敵機甲部隊2,000車両による突入を受け、病院長以下、多数の戦死者をだして全滅した。第493救護班(熊本)は敵の突入2時間前に、自決用の青酸カリをもたされ、重症患者約200名とともにピンヨウ患者療養所に向かい、危機一髪で難を逃れた。同じく第490救護班(新和歌山)も、1945(昭和20)年1月18日にアキャブに近い前線の118兵站病院パウンデー分院に派遣された。4月26日になってようやく病院長より撤退命令が出されたが、すでに敵に包囲されつつの撤退となった。この救護班はペグー山系を越え、シッタン川を渡って進む途中、英軍やビルマ反乱軍に襲撃され、23名中15名が死亡、もしくは行方不明となった。撤退が遅れただけでなく、赤十字の救護員であることを隠して行動したことも被害を大きくした要因の一つだった。「四方から敵兵がだんだんと近づき、銃口が向けられているのを感じた。「みんな、自決しましょう。捕虜になったらいけません」婦長はそう言うと、ベルトを外して自分の首に巻き、みんなも倣った。・・・婦長は「天皇陛下万歳」と叫んで絶滅、6名が命を落とした。タウンジーでは看護婦4人で約1,000人の患者を担当した。「夜が明けると木切れや枯葉を集めて火を焚き、小さなシンメルブッシュで注射器を消毒。ブドウ糖やビタミン等、指示の注射や傷の縫合を手早く済ませると、重傷者を一人ひとり背負ったり、助けたりして病舎からできるだけ離れた安全な繁みや窪みに落ち着かせ、昼食の飯盒と水筒を枕元に置いた。日中は全く動けなかった。絶えず敵機が飛んできており、一人でもみつかると、直ぐに低空飛行してきて機銃掃射を浴びせかけた。日没になると再び患者を病室に戻して夕食を配った」。タウンジーは2月の爆撃により、わずかの病棟建物を残して壊滅、入院患者の戦死約100名、傷者約800名、病院側も16名の戦死傷者を出した(橋、99紅143)。カローでも約3,000名の患者が搬送され、周辺の沢や森かげにあふれた。爆撃によって一挙に100名以上が土くれのように吹き飛ぶこともたびたびであった(橋117)。ビルマ北部にいた365 486,487,488,492,493の6個班は鬼川誠見習士官、下士官2名、兵4名に護られ、ケマピューを出発、サルウィン河を渡り、泰緬国境を越えて、6月泰国チェンマイへと撤退した。インドシナ山系の西の支脈が長く南に延びた、2000メートル級の山が連なり、ちょうど伊豆半島の突端から日本アルプスを越え、日本海に至る距離に等しい。大木の根元で横たわる兵士。水、水とかすかなうめき声、水筒の栓を取り一口注いでや61