ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

字の標章は爆撃の対象となるという理由で看護婦に身分を明かすことを禁じ、敵味方なく救護することをうたう赤十字の看護婦に対して、竹やりによって敵兵を死にいたらしめ、いざというときには自らも青酸カリや手榴弾によって死ぬよう教育した。日赤の看護婦も、もとより外地に派遣される以上、死を覚悟して日本を出発したが、敵の侵攻を目前にして辱めを受けるよりはよいと考え、保護される可能性よりも自ら死ぬことを選択した。赤十字の看護婦たちの仕事ぶりは熱心であり、懸命に使命を果たそうとした。それだけに撤退時や山中行軍など、思うように看護ができないなかで、患者や行き倒れる兵士を置き去りにしていかなければならなかった場面での苦悩は大きかったと考える。(5)1945年8月9日:長崎被爆直後の赤十字救護看護婦の救護活動(別刷)研究協力者吉川龍子(日本赤十字看護大学史料室)第二次世界大戦中の1945年8月9日午前11時2分、長崎市浦上に原子爆弾が投下され、8月6日の広島市に次いで長崎市は世界で2番目の被爆都市となった。広島市にはウラン爆弾が投下されたが、長崎市にはさらに殺傷力の強いプルトニウム爆弾が投下された。爆心地は市内北部の工場地帯であり、東西の丘陵地帯に挟まれた浦上川流域の谷間状の地形であったため、強烈な熱線と爆風が襲いかかり、一瞬にして市街地は破壊された。日本赤十字社長崎支部の診療所(新橋町)は爆心地から3kmの位置にあったが、爆風による被害を受けて内部の備品が散乱した。診療所の為医師も看護婦も少人数であったが、被爆直後から殺到した負傷さのために、ただちに救護を開始した。広島市では広島赤十字病院と広島陸軍病院(第一、第二)で勤務中の赤十字救護看護婦が多数犠牲となったが、長崎市に派遣されていた日本赤十字社救護班はなかったので被爆時の犠牲者は出ていない。被爆の数時間後には、近接地の軍病院から救護班が派遣され、赤十字救護看護婦も救護隊員として原子野となった長崎市内に入り、応急の救護活動を開始した。また近隣の各地へ搬送された被爆者の救護にも赤十字救護看護婦が多数加わり、寝食を忘れて懸命の救護活動に従事した。戦後35年を経た1980(昭和55)年に刊行された『閃光の影で原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記』(日本赤十字社長崎県支部刊行)は、一般に知られていない当時の生々しい救護記録が記されている。また各県支部の記念誌にも、長崎市内と近接地に派遣された救護班の記録がみられる。これらの資料をもとにして、長崎被爆者救護に活動した赤十字救護看護婦の実態を明らかにした。以下は、大村海軍病院の被爆者救護に関する結果である。大村海軍病院は、太平洋戦争開戦の翌年の1942(昭和17)年10月に開院し、南方各地の戦場から移送された戦傷病者収容のため増築を重ね、患者収容力1700名という大病院となっていた。1944(昭和19)年11月の記録によると、収容患者1310名(うち戦傷者145名、戦病者448名、その他717名)であり、病院勤務者480名のうち赤十字救護班の救護看護婦は151名であった。(1)同年6月以降は九州地方が空襲を受けるようになったた63