ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

め、防空壕の他に地下病院の構築が計画され、救護看護婦も勤務の合間につるはしやスコップを持って工事に参加したが、資材と人手不足によりその計画は完成しなかったという。空襲の被害をさけるために、でき得る限り患者の退院を急いだために、戦争末期の1945(昭和20)年8月には入院患者がわずか200名となった。これに対して病院勤務者は、赤十字救護班が増加し見習い士官、教育中の衛生兵も増えて、総人数684名を数え、救急医療に対する態勢を整えていた。大村海軍病院の当時の病院長であった泰山(やすやま)弘道(こうどう)が後に著した『長崎原爆の記録』(2007年刊)によると、「度重なる大村空襲に際し、その犠牲者は軍民のいずれを問わずこれを治療」したと述べている。長崎市にも被爆前に5回の空襲を受けていて、被爆直前の8月1日の空襲の際には大村海軍病院に勤務中の長崎支部第362班を中心に佐賀支部第452班を加えた救護隊が派遣されたことが第362班の「業務報告書」に記録されている。長崎被爆時には、大村海軍病院でも閃光と、きのこ雲によって異変を知り、長崎市の被害甚大の報告を受けて、直ちに救護隊の派遣を決めた。泰山院長はすでに、長崎に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを察知していて、軍医・衛生兵・救護看護婦からなる救護隊を前にして「原子放射能の危険を承知し決死の覚悟にて出発することになった」と、隊員の身体を案じながら見送った当時の苦痛の思いを手記に記している。(2)この救護隊に加わった赤十字救護看護婦は長崎支部第362班8名、佐賀支部第594班6名、同第452班1名の15名であったことが「業務報告書」に記録されている。救護隊が衛生材料や食料を満載したトラックに乗って出発したのは午後3時過ぎであり、諫早街道を経て長崎旧市街に近づくと、市内から歩いて避難して来る人たちと出会った。いずれも衣服は焼けちぎられ、「早く行ってください、大変です」と口々に助けを求めた。市内に入ると、すでに伊良林国民学校に佐世保海軍病院諫早分院から派遣された救護隊が診療所を設置していた。市内をさらに進むと、各所に火災が発生し、長崎駅前の北方の浦上方面は火の海であったため、その手前の井樋ノ口の交番所前広場(爆心地から1.6km)に治療所を開設し、三班に分かれて救護活動を開始した(「大村海軍病院救護隊報告」)。(3)救護看護婦の中には、交番横の御舟川にかかる橋の上や、近くの寺の崖下の防空壕の中で、負傷者の救護に従事した人もいた。「被爆者のだれもが激しい爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、痛ましい姿。なかには、力尽き果て冷たい姿となった母親の上に横たわる幼な子、そのなまなましい姿、この世のものとは思えない地獄の様相を呈していた。道路上に横たわる負傷者までは手が届かず、救護所まで歩いて来る患者だけを応急処置するのが精いっぱいだった。」64