ブックタイトル平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

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概要

平成26年度「学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成」研究報告書

(「私も原爆当日、爆心地に入った救護隊員」『閃光の影で』)大村海軍病院からは続いて第二次救護隊が出発した。この救護隊には、長崎支部第362班2名、佐賀支部第452班1名、徳島支部第500班1名の救護看護婦が加わった。火災発生中の長崎市内に入って伝馬船で長崎湾を渡り、稲佐山の麓の稲佐国民学校(爆心から1.9km)内で救護を開始した。被災地を歩いている時に、連合国軍の捕虜が負傷者を担架で運ぶ姿を目撃した救護看護婦もいた。「道路の破壊は著しく、がれきの道には、被災した人が家財道具を持って諫早方面へ避難する人波でごったがえし、その間をぬって被災地へと急いだ。途中の電柱はまだ炎が残り、三菱造船所の巨大な鉄骨が無気味なまでに大きく波のように曲がり、近くには外国兵で捕りょとなっている人が担架で救護に当たっているすがたもあった。」(「これからの人生を有意義に」『閃光の影で』)当時の長崎市内には、福岡俘虜収容所の第二分所(香焼島)と第十四分所(幸町)があり、第十四分所(爆心地から1.7 km)は市内にあって建物が崩壊し、犠牲者が出た。捕虜の国籍はオランダ人(インドネシア人含む)・オーストラリア人・イギリス人などで、造船所や鋳造工場で労働に従事していたが、資材不足や空襲が続いたために近くの丘陵で防空壕掘りの作業中の人たちもいた。また作業の交替で収容所に帰り休憩中の人もいた。(4)被害建物の下から外に出た捕虜たちは、市街の消火に協力したり、負傷した市民に対して搬送や包帯巻をしてくれたという事例が、被爆市民の手記の中に見られる。この大きな惨状の中では敵も味方もなかったという。大村海軍病院の最初の救護隊は医薬品を使い果たし、夜間となったため、まだ助けを求めている被災者たちに心を残しながら帰途につき、午後11時すぎに病院に戻った。しかし院内には長崎市内からつぎつぎと搬送されて来た多数の患者が収容されていて、救護隊の人たちは休む暇もなく、またも被爆者救護に従事することとなった。大村海軍病院からは、10日以後も救護隊が連日派遣された。(付)日本赤十字看護大学看護歴史研究室ブックレット創刊号「戦後七〇年日本赤十字社救護看護婦の語りから平和を考える」救護員の使命を胸に最前線ラバウルで生き抜く高野夏美氏マニラの戦火に散った同胞を見送って木村美喜氏救護員十訓こそ戦地ビルマでの支えに福田哲子氏ビルマからの山越え行軍と赤十字精神長谷部鷹子氏救護員として知られざる歴史を残す意義守屋ミサ氏二つの国に捧げた日赤精神とは、平和への祈り大連で見た地獄絵を今、語り継ぐ村山三千子氏萩原ツヤコ氏65